春のおとずれ

家の近所にお気に入りの蕎麦屋がある。店の名前は<又八郎>という。

蕎麦がおいしいのはもちろん、店のたたずまいや雰囲気がいかにも蕎麦屋な感じで好みなのだが、店をひとりで切り盛りしているらしい主人がちょっと変わっている。
小さい店は客が10人ほどしか入らないのだが、満員時に客が入ってくると「今いっぱいなんで」とにべもなく言い放ち、オーダーされた順番通りにもくもくと蕎麦をつくる。最後の一本まで集中した手つき顔つきで蕎麦を盛る様子は趣がある。
しかし、休業日も閉店時間不定なので、蕎麦を食べる気満々で店まで行き、裏切られることも少なくない。

さて、日本に帰国して間もない2月下旬の休日、まだまだ冷たい冬の空気のなかを、恋人と寄り添い合いながら、その蕎麦屋へ行った。

すると、閉じられたシャッターに張り紙がある。

まさか、冬眠とは。

その後もしばらくその張り紙はさむざむと風に吹かれていたのだが、だんだん陽気のあたたかさを肌に感じはじめ、冬のコートをクリーニングに預けた今日、店の前を通りかかったら、のれんがかかっていた。

すぐに恋人に「又八郎、冬眠終了!」とメールを送ったあと、いよいよ春だな、と思う。

今年は妙なことで春のおとずれを感じてしまったが、ロマンチックではなくともおもしろくはある。

ちょうどこの日、東京では桜の開花が宣言された。