リズミカルな森のラクダ」と「美しい水車小屋の娘」

渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムへ「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」というエキシビジョンを観に行った。



ピカソとクレー、というよりクレーがメインの展示だった。
中でも気に入ったのはクレー(Paul Klee)の「リズミカルな森のラクダ」という作品。



森にラクダがいるというのが楽しいし、リズミカルな森というのも素敵だ。さらに、鼻歌でも歌っていそうなラクダの表情がなんともかわいい。
カラフルな風船のようなものは木を表現しているというが、何本も引かれた横線を楽譜の譜線と見れば、音符にも見える。サイズも感覚もまちまちで、いかにもリズミカルな雰囲気がある。
バイオリニストでもあるクレーらしい作品だと思う。



しかし、「リズミカルな森のラクダ」というタイトルに関して、リズミカルなのは森だけなのか、ラクダだけなのか、それとも森とラクダ両方なのか?ということが気になる。
作品の解釈の観点からはさておき、私はこういう曖昧な表現が好きではない。
そこで英語のタイトルを調べると「camel in rhythmic wooded」とあり、リズミカルなのは森だけということが判った。



このように修飾の対象が曖昧な表現というのは往々にしてよくある。



シューベルトの作品に「美しい水車小屋の娘」と訳され有名な歌曲がある。
しかし、この表現では、美しいのは水車小屋だけなのか、娘だけなのか、それとも水車小屋と娘の両方なのか、判断できない。



以前某大学の講義の中で、講師の先生がこの問題について以下のような趣旨の説明をしてくれた。



現代の日本人にとって水車はなじみが薄いものであり、それゆえにヨーロッパの美しい光景のひとつとしてとらえる人が多く、美しいのは水車小屋と娘の両方だと考える。
一方、ヨーロッパ文化では、水車小屋は多く製粉所であり、そこで働く粉ひき職人の身分は低かった。加えて、人里離れた場所にあるため、しばしば革命家たちの秘密の会所や武器庫となり、反社会的・暴力的なイメージがつきまとった。
そうした理由から、水車小屋は一般的に美しいとは形容され得ない。少なくとも、そうした文化的背景があるので、美しいのは娘だけであると誰もが判断できるという。
水車小屋と娘の両方を美しいと解釈するのと、娘だけが美しいと解釈するのとでは、ストーリーの理解が違ってきてしまう。
そのため、上述の先生は自著の中で「水車屋の美しい娘」と訳している。



「リズミカルな森のラクダ」の場合、リズミカルが修飾する対象が、表現上は森だけだったとしても、そのリズミカルな森の中でラクダが歩く調子もリズミカルであると解釈できるし、大きな問題はないと思う。



しかし、元のタイトルに忠実に訳すならば「リズミカルな森の中にいるラクダ」の方が、表現も明確でよりよいのではないだろうか。