もとをたどれば決着?!いぬ派ねこ派論争


ねこが好きだ。



PCの「Cats」フォルダにお気に入りのねこの画像や動画を300以上集めているし、
まちでねこに出会えばあいさつせずにはいられない。



でも、残念ながら妹がねこアレルギーだったので実家では飼えなかったし、
いまの恋人もねこアレルギーもちでねこ嫌いなので、彼とつき合い続けるかぎり飼うことはできない。



わたしがねこを好きな理由はいろいろある。


からだのかたちと、そのからだの柔軟さと、その柔軟なからだの芸術的といえる動きに、見とれてしまう。
いかにもずるそうで意地悪そうで裏切りそうでありながら、孤独を恐れぬ自立心と揺るがぬ自尊心を宿しているように見える目に、心惹かれる。
なにもかも計算ずくのような顔をしているくせに、姿や挙動にぬかりがあったりする人間くさい性質に、感情移入してしまう。



というわけで、完全にねこ派のわたしだが、
犬と猫とどちらが好きか、どちらがかわいいか、という「いぬ派ねこ派論争」は絶えない。



いぬ派ねこ派論争の起源にかかわるであろう、いぬとねこの起源をたどってみる。



まず、ねこが日本で愛玩対象として飼育がはじまったのは主に平安時代からとされている。
文献にもその記述が残っており、『枕草子』の第六段「上にさぶらふ御猫」は高校の教科書で学び、個人的にも印象に残っている。
一方、「上にさぶらふ御猫」のなかで「命婦おとど(ねこの名前)」を追い回して追放されたとして「翁丸」と名づけられたいぬが登場するが、平安時代以前の奈良時代には貴族が鷹狩や守衛のためにつかういぬの世話係として犬養部という役職が存在した。
縄文時代の遺跡からも埋葬されたいぬが発見されており、いぬのほうがねこよりむかしからペットとして可愛がられていたことがうかがえる。



そして、いぬとねこの世界的に最古の飼育の痕跡を調べてみると、
ねこについては、約9,500年前の地中海東部のキプロス島で、人体遺体と一緒に埋葬されたねこの骨が発見されており、
もっともはやくから家畜化された動物とされているいぬは、子犬らしき動物を抱いて埋葬された約12,000年前の狩猟採集民族の遺体がイスラエルで発見されている。



しかし、さらにいぬとねこの生物的な起源をたどると、ある生物にいきつく。
それが、いぬとねこの祖先といわれるミアキス(Miacis)である。
ミアキスは、約6,500万前〜4,800万年前にヨーロッパや北米に生息していたとされる。



いぬとねこのルーツが実はおなじ動物だったというのは、
強固ないぬ派、あるいはねこ派の論者にとっては意外な事実ではないだろうか。



バイオテクノロジーが発達しつづける世界の未来に、もしミアキスがよみがえったら、いぬ派ねこ派論争は終結するかもしれない?!

ある外資系証券会社のえらいひとが憧れたもの

外資系証券会社で働いている友達から聞いた話。



友達の大ボスであるM氏は、裕福な家庭に生まれ、海外の大都市で育ち、世界的な一流大学を首席で卒業し、誰もが知る外資系証券会社で重要な地位に就き、美人の妻がいる。
M氏は業界内でも屈指のやり手として一目置かれる存在だが、その境遇や才能、経済力に起因する傲慢な態度や発言も有名である。
「100平米以下の家は、家ではない」というのはM氏の持論の一。



さて、そのM氏には、憧れているものがあった。



オフィスからクライアントのオフィスへの移動の際、通常はもちろんタクシーを利用するが、たまーに、電車で行ったほうがずっと早いし、楽、ということがあり、
M氏は部下と連れ立って、プライベートでは絶対に乗らない電車に乗ることになる。
その際、自分が切符を買っている間に、部下たちがみな財布やカードケースやケータイをかざして改札を通っているのが、M氏は不思議であり、不愉快だった。



そして、友達がM氏と一緒に電車を使ってクライアント先に行くことになったある日、いつも通りカードケースでピッとした友達の背後で、たたずむ不機嫌な声。



M氏「なんだよ、それ」
友達「?」
M氏「なんだよ、そのピッ」
友達「・・・suicaです」
M氏「スイカってなんだよ」



友達にsuica(pasmo)についてくわしく説明させたあと、M氏は一言だけ、
「ふうん」
と言った。



後日、M氏は友達に
「見ろよ、これ」
と、自分のsuicaを自慢顔で見せてくれたという。
友達だけにではなく、秘書さんたちや部下たちにも披露していたという。



普段は、その傲慢さや、仕事上の容赦のかけらもない酷い要求や追及に恐れ震えあがっている彼らの、その日M氏を見る目は、優しかったという。

スイカバーが好き


イカバーが好きである。


まず、見た目がスイカらしいところがぐっとくるし、
味も、ほんとうにスイカかと問われたら多少疑問だけれど、なんとなくスイカ風な気がする。
シャーベットの類なのに、赤い部分がシャクシャクしすぎず、しっとりしている食感も好みだ。


↓妹が描いた絵

谷川俊太郎の恋文

あくびがでるわ
いやけがさすわ
しにたいくらい
てんでたいくつ
まぬけなあなた
すべってころべ



これは著名な詩人谷川俊太郎さんによるもので、「谷川俊太郎の恋文」と呼ばれている。
一読すると恋文には到底思えないが、それぞれの文章の文頭の文字をつなげて読むと「あいしてます」という愛の告白になっている。



これは「折句(おりく)」と呼ばれるレトリックのひとつであり、古典「伊勢物語」の中で「かきつばたという五つ文字を句の上におきて旅の心を読め」という問いに対して、在原業平らしき男が以下のように詠んだとされる。

から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ



ちなみに、海外では同様のレトリックを「アクロスティック(acrostic)」という。



谷川俊太郎さんの恋文をはじめて知ったのはずいぶん昔のことだったが、子供心にすてきだと感動したのを覚えている。
レトリック自体を真似するのは簡単だが、これほどすてきな表現にするのは難しい。



この恋文がすてきであるポイントは、ひとえにギャップにある。
普通に読むと、恋人に対して不満を言い、悪態を吐き、呪ってまでいるのだが、ふと「あいしてます」という言葉が巧妙に浮かび上がってきて、ひとたびそれに気がついてしまうと、天邪鬼な態度こそが本心の真実味を確かにしているように感じられる。



さて、このすてきな恋文を、ロマンチックをまったく解さない私の恋人に書き送り、案の定すてきさがわかっていない彼に、そのすてきさをせつせつと説く。
私「わかった?」
恋人「わかったよ。ツンデレってことだね」
私「・・・」

リズミカルな森のラクダ」と「美しい水車小屋の娘」

渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムへ「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」というエキシビジョンを観に行った。



ピカソとクレー、というよりクレーがメインの展示だった。
中でも気に入ったのはクレー(Paul Klee)の「リズミカルな森のラクダ」という作品。



森にラクダがいるというのが楽しいし、リズミカルな森というのも素敵だ。さらに、鼻歌でも歌っていそうなラクダの表情がなんともかわいい。
カラフルな風船のようなものは木を表現しているというが、何本も引かれた横線を楽譜の譜線と見れば、音符にも見える。サイズも感覚もまちまちで、いかにもリズミカルな雰囲気がある。
バイオリニストでもあるクレーらしい作品だと思う。



しかし、「リズミカルな森のラクダ」というタイトルに関して、リズミカルなのは森だけなのか、ラクダだけなのか、それとも森とラクダ両方なのか?ということが気になる。
作品の解釈の観点からはさておき、私はこういう曖昧な表現が好きではない。
そこで英語のタイトルを調べると「camel in rhythmic wooded」とあり、リズミカルなのは森だけということが判った。



このように修飾の対象が曖昧な表現というのは往々にしてよくある。



シューベルトの作品に「美しい水車小屋の娘」と訳され有名な歌曲がある。
しかし、この表現では、美しいのは水車小屋だけなのか、娘だけなのか、それとも水車小屋と娘の両方なのか、判断できない。



以前某大学の講義の中で、講師の先生がこの問題について以下のような趣旨の説明をしてくれた。



現代の日本人にとって水車はなじみが薄いものであり、それゆえにヨーロッパの美しい光景のひとつとしてとらえる人が多く、美しいのは水車小屋と娘の両方だと考える。
一方、ヨーロッパ文化では、水車小屋は多く製粉所であり、そこで働く粉ひき職人の身分は低かった。加えて、人里離れた場所にあるため、しばしば革命家たちの秘密の会所や武器庫となり、反社会的・暴力的なイメージがつきまとった。
そうした理由から、水車小屋は一般的に美しいとは形容され得ない。少なくとも、そうした文化的背景があるので、美しいのは娘だけであると誰もが判断できるという。
水車小屋と娘の両方を美しいと解釈するのと、娘だけが美しいと解釈するのとでは、ストーリーの理解が違ってきてしまう。
そのため、上述の先生は自著の中で「水車屋の美しい娘」と訳している。



「リズミカルな森のラクダ」の場合、リズミカルが修飾する対象が、表現上は森だけだったとしても、そのリズミカルな森の中でラクダが歩く調子もリズミカルであると解釈できるし、大きな問題はないと思う。



しかし、元のタイトルに忠実に訳すならば「リズミカルな森の中にいるラクダ」の方が、表現も明確でよりよいのではないだろうか。

お気に入りのNY Yankeesめざまし時計

朝が苦手である。

しかし、昨今のめざまし時計は、頼りなくていけない。

携帯電話の目覚ましアラームなどはもってのほか、あんな音量では、睡眠中のわたしの耳まで到底届かない。

そもそも、最近のめざまし時計はデジタル音が主流のようであるが、どんなデジタル音であろうと、私は耳や脳がその音に慣れてしまうのか、すぐに音を認識できなくなってしまう。
ようするに、音が鳴ったことにすら気がつかず、眠り続けてしまうのだ。

というわけで、非常識な音量で鳴りに鳴りまくるベル式めざまし時計を探していたのだが、最近のベル式めざまし時計はデジタル時計並みにスヌーズ機能やバックライト機能がついていたりして、機能のぶん容姿がいかつい。
私好みのシンプルできれいな見た目のものはなかなか見つからなかった。

だが、私がまだニューヨーク滞在中に、妹が観光で訪ねてきて、彼女のお土産選びに付き合っている折、ついに見つけた。

ロゴマークからわかる通り、NYヤンキースのめざまし時計である。
おとなしい外見に反して、セットした時間になると、大音量で鳴り続ける。

メジャーリーグでプレーしているベースボールチームで、ニューヨークを本拠地にしているのは、NYヤンキースとNYメッツの2チーム。
NYヤンキースのグッズは、メッツやその他チームのグッズと比べて圧倒的におしゃれだと思う。
女の子用の衣服(ジャージ、パーカ、ブルゾン、Tシャツとか)なんかも普段着にできるくらいかわいい。

NYヤンキースのクラブハウスショップはマンハッタン内に5店舗あって、NYヤンキースグッズはディズニーストアのNY限定グッズと同じくらいお土産としておすすめ。